よくある28歳のブログ

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読書録② 「金閣寺」 三島由紀夫

*注意 そこそこ長文です。あと独断と偏見でだいぶ深読みしてます。


理論と実践

一般的な話として、小説という作品形式はその作者の個性とか人間性といった要素を離れて普遍的なものとして解釈されて、なおかつ読者のひとりひとりが「こういうことは自分にしか理解できないはずだ」という強い共感に伴われながら時代の洗礼に耐えて読み継がれていくものこそが名作だとされている。


もちろん『金閣寺』は幅広い読者に多くの実りをもたらす稀代の名作だと前提した上で、作者・三島由紀夫についての人間理解がなければ本作は中々読み進めるのに耐えない難解な作品であることもまた事実であると僕は思う。


したがって、僕が本作についてなにがしかの感想を述べようとする場合にはどうしても作者・三島由紀夫と彼のその他の仕事についても多かれ少なかれ言及せざるを得ないのだという事情をどうぞご理解して頂きたい。


そう断っておいて本題に入るからには、まずは僕が三島という人間をどういう風に理解しているのかということをできるだけ端的に明らかにしておこうと思う。


もちろん僕は彼の遺した作品群を全て丹念に読み返したわけではないが、そこに終始一貫している原理のようなものをあくまでそういう僕の貧しい知識で推論してしまうのなら、それは「理論と実践」という言葉の括りでひとまず認識できるのではないだろうか。


彼が作家活動外で見せた表現行為や講演・対談等における論理展開を含めて、その原理は彼の人生を支配してしまう程に根源的なものであったと思う。


そういう背景があって、『金閣寺』についても頭の中で構築されていった理論を現実というフィールドの上で実践するまでの葛藤や矛盾、それら心理的な変遷のプロセスを追う「理論と実践」のテーマを念頭におくことで問題なく読めてしまうだろうし、ドストエフスキーの『罪と罰』と本作を対比させて、一方が「やってしまってからの話」でもう一方が「やるまでの話」だという、三島自身が相手になってそう語っている対談を僕は何処かで目にした記憶がある。


確かにこの小説のライトモチーフ(主題)はそこにあるように考えられる。


ふたつの世界

以上のような共通理解が三島由紀夫と『金閣寺』についてなされているということを確認したうえで、ようやく深読み或いは曲解の誹りを恐れず自らの意見を述べるのに必要なだけの助走が僕の中で整ったのである。


ここで僕は「ふたつの世界」という提案をする。


その意味は、ひとつが金閣が存在し焼失することになる我々の生きているこの世界のことである。そしてもうひとつは金閣が媒体となることによりこの世界に象徴されているところの、「美」「崇高」それから「永遠」をはらんだ世界である。


この概念自体は作中にそう匂わせている箇所も少なくないので推測するのに難くないかと思う。


また、これは作者独自の発明によるところでもなく、伝統的な哲学の考え方のうちにそういうものが既に何度も登場してきたし、それこそ何度となく議論されてきていると思う。


したがって、その考え方そのものだけについて言えば何も目新しさはない。


僕がこの作品について何がしかを述べようという動機になったところの、この作品の真の魅力というのは以下、最後に述べられるところに集約される。


私は何者か

さて、それでは金閣の燃えていく世界に肉体が存在しながら、金閣により象徴されているところの「美」や「崇高」を認識することのできるこの不思議な私はいったい何者か?


そんな興味を読者がかきたてられるのはもっともなことである。


ところが『金閣寺』ではその答えを与えていないように思う。


なぜなら作者も同じ興味を持ち、その答えの出し方のひとつとして後に提案されたものこそ三島由紀夫最後の仕事『豊穣の海』シリーズと市ヶ谷での自決であったのではなかろうか。


そこまで思い至れば、実は答えなどないのかも知れない、まるで禅問答の問いかけのようなこの作品そのものが、「私」という曖昧模糊とした有機体の相似形として存立しているということを身震いと伴に思い知らされるのである。




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