読書録③ ヘッセ 「シッダールタ」
この本を初めて読んだ時、僕は22歳で、今更そう言ってしまうと空しいようだけれど、はっきりと僕は「恋」をしていた。
それは空の太陽のように燦然と世界の万物を照らし出すような恋ではなく、何かの化学反応によって地上に生まれた、妖しく謎めいた青い燃え上がりに似ていた。
自然のあるがままに慣れ合うのでなく、お互いに強くあろうと、自立した個人であろうと、その恋にはそういう風に、最初からどこか無理なところがあったように思う。
それでも不安な時間がやってきたら、僕と恋人は多くを語らず互いに体を求めた。
精神的な繋がりだけでは男と女は一緒にはいられない。
そういうことでは意見が一致していた。
他にも考え方のよく似た二人だったが、決定的に意見の違っていることがあった。
あの頃の僕はまだ言葉の力を信じていた。
言葉による表現は、一切を包み込む。そう考えていた。
一方で、それは幻想だと恋人は言った。
言葉は、それだけでは独立した力は何も持たない。
常に補完・補足の必要な、世界を模倣するための手段でしかないとあなたは言いました。
今になって『シッダールタ』を読み返すと、バラモンの子シッダールタが悟りに至るまでのその表面的な物語の膜の下に、言葉による表現を以て言葉による表現とその価値を打ち砕こうとする詩人・ヘルマン=ヘッセの自己撞着的な途方もない企みが見えてくるような気もする。
読者の成熟に合わせて読まれ方の変わってくる小説、一生のうちに何度も読み返せるそんなものが数冊あることは幸せなことだ。
さて。『シッダールタ』についての考察・感想というよりもすっかり個人的な思い出話になってしまったが、個人史を離れた読書体験などないのだからそれもまあ分かってほしい。
最後に。この『シッダールタ』の作品イメージに繋がるものがヘッセの詩集の中にあったので引用しておきます。
無意識的なものから意識的なものへ、
そこからもどって、多くの小道を通り、
私たちが無意識的に知っていたものへ、
そこから無慈悲に突き放されて、
疑いへ、哲学へと促され、
私たちは到達する、
皮肉の第一段階へ。
それから熱心な観察によって、
多様な鋭い鏡によって、
世界軽蔑の冷たい深淵が
凍える精神錯乱の
むごい鉄の暴力の中に抱き取る。
しかしそれは賢明に私たちを連れ戻す、
認識の狭いすきまを通って
自己軽蔑の
甘にがい老年の幸福へ。
『ヘッセ詩集』 訳:高橋健二
- シッダールタ (新潮文庫)
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